2021年4月23日
飛騨高山観光ポスターに画像を採用いただきました〜
ありがとうございます〜
撮影地は、高山市 奥飛騨温泉郷 新穂高温泉
残雪の笠ヶ岳(標高2898m)を望む北アルプス大橋です。
春の訪れが遅い奥飛騨では、5月中旬になり新緑が山を登り始めます。

ところで、ロゴの「飛騨高山」の「飛」には「点」が2つしかありません。そのエピソードに迫ってみました。
ロゴの作者は
瀧井 孝作 氏(たきい こうさく)
1894年(M27年)高山市大門町生まれ
20歳で東京へ
小説家・俳人・編集者・文化功労者
1971年(S46年) 高山市名誉市民
1984年(S59年)90歳で没
「余生余滴」(著者:小鳥幸男氏 2009年発行)にロゴ製作の経緯があったので、以下概要です。
本の著者 小鳥幸男氏は、高山市民時報社社長・高山商工会議所副会頭・高山市文化協会会長等を歴任された著名人で、高山市民時報社の前は、高山市職員でした。
1965年(S40年)商工観光課 課長補佐時代、観光誘致PRエリアは大阪・名古屋圏で、「山都高山」「小京都高山」のロゴが使われていましたが、小鳥氏はそのロゴが気に入りませんでした。
新しいタイトルを「飛騨高山」と決め、高山市出身の俳人・作家の瀧井孝作氏に書いてもらうため、八王子市の瀧井宅をたずね、ロゴを書いてもらいました。
そして、郷土の産んだ大写真家 細江光洋氏(1920年~2003年)に、飛騨の里の完成したばかりの野首家の土間の囲炉裏を撮影してもらい、瀧井氏の「飛騨高山」ロゴと組み合わせました。
著書「余生余滴」表紙にそのポスターの画像が使われていることからも、瀧井氏・細江氏の両巨匠に依頼し製作したポスターに、小鳥氏は特別の思い入れがあったとうかがえます。
そして、観光誘致PRエリアを東京圏に変更し飛騨高山展を開催し、たいへん盛況であったと記載があります。
(原文)
「千万言の美辞麗句より、また万金を投じて半ば惰性のように繰り返されるイベントよりも、四十余年間にわたって
何の経費も伴わず 黙々と人々の目に訴え続けてきた、この「飛騨高山」の文字。風格さえ備わり好印象を与え続けてきた この文字の経済的効果は計り知れない。」
なんと、エピソードには続きがありました。
1973年(S48年)小鳥氏は7年ぶりに課長として観光課勤務となりました。
東京圏でのPRは功を奏し年々観光客は増えていました。
かつて瀧井氏に依頼した「飛騨高山」ロゴの元原稿は紛失し、データ保存ではなく転写を繰り返していたため字形に変化が生じていました。再度、瀧井氏に依頼し書いていただいきました。
当初のロゴは六朝風の力強さにあふれており、2度目のロゴは枯れていて瀧井氏最晩年の人柄を偲ばせるものであったとのことです。
それから数年が経過し、小鳥氏はすでに観光課長ではありませんでしたが、高山市議会である議員が質問しました。
「ポスターの飛の字の肩の点は本来なら4つあるはずが2つしかない。公の物に使うのは間違いではないか」
私が観光課長であったなら、こう答弁したかもしれないと記されています。
「あの文字の点は筆勢で作者が敢えて省略されたものと思います。書法にはこうした例は間々あることで、例えば、山王祭の中橋詰の旗の文字には点が一つもありません。」
当初の製作から半世紀以上が経過し、高山市の観光発展の歴史を見守ってきた「飛騨高山」のロゴ
そんな貴重で歴史があるロゴを使ったポスターに画像を採用いただいたことは、比呂池写真史での最大級の誉です。
これからも飛騨高山観光PRのため写真業に邁進することを心に誓う比呂池です。
しかし・・・瀧井先生へのギャラが無かったことは驚きです。
小鳥氏は謝礼を用意して出向きましたが、瀧井先生は小鳥氏の熱意と故郷高山への想いから、
「謝礼は受け取らぬ・・・」とおっしゃったことが容易に想像できます。